商売繁盛の縁起物としてお店などによく飾られている「福助の人形」。
飾られるようになった由来について、また福助人形はあの七福神と関係が?
ということでその辺についても調べてみました。
Table of Contents
福助人形の由来とは?
福助人形について
大きなちょんまげ頭や垂れた大きな福耳が特徴的な二頭身ほどの体格で、着物のような服を着て正座をしている男性の人形です。
陶器や磁器で作られることが多いです。また頭が大きな人の比喩にされたりもします。
なんと名前もちゃんとあり、「叶福助」といいます。
江戸時代中期から江戸に現れたと言われている縁起物の人形です。
願いが叶う象徴としてお茶やさんや遊女屋などで祀られていたそうです。
福助人形の格好について
背は低く頭は大きく髷(まげ)を結っています。
福助人形が着ている着物のようなものは、裃(かみしも)といって男子の和服の正装の1つです。
四角の赤い座布団に正座をしています。
中には扇子を広げて持っている物もあります。
・扇子 扇子を開いた形が「末広がり」になり縁起がいいとされる。また片手で持つことには裕福は状態を意味する「左うちわ」の意味がある
・赤の座布団 願いが叶うごとに座布団を積み重ねていくと尚良しとされる。材を呼ぶともいわれています。
・裃 肩衣と袴の柄は当時流行していた小紋染めの物が多く、「福」の文字が紋として入っており、「叶」の文字が入っている場合もあります。
福助人形の由来には複数の説がある
福助人形にはモデルになった人物が実在すると言われています。
それにはいくつかの説があるのでご紹介しましょう。
まずは一番有力とされている説から
福助のモデルは佐太郎説
江戸時代後期の摂津国(現在の大阪府北中部の大部分と兵庫県南東部にあたる地域)の西成郡に実在した百姓「左五右衛門」の息子「佐太郎」がモデルとするものです。
彼は身長が二尺(約60センチ)ほどしかなく、頭が非常に大きい身体障害者でした。
近所の笑いものになるのを憂い、よそに出ていくことを志し東海道を下っていきます。
するとその途中、小田原(神奈川県西部)で香具師(こうぐし、やし)に出会います。
(香具師というのは街頭で見世物などの芸を披露していた商売人のことです。)
(見世物とは普段見られない珍しい物や品、芸や獣や人間を小屋での興業のことで、残酷ですが身体障害者の奇異な外見を見世物にするという娯楽でした。)
香具師の誘いで「見世物」に出ることで収入を得るようになります。
見世物に出たところ、評判がよくて、江戸は両国の見世物に出されるようになります。
すると、江戸でも大評判になりました。
昔は身体障害者は「不具者」と呼ばれていましたが、おそらく、それをもじって佐太郎は不具助と呼ばれており、江戸で大評判になった際に不具助もじった「福助」という名前を佐太郎に命じたそうです。
すると名前が福々しく縁起がよいと、さらに見物する人は盛況になりました。
そうした中、その見物人の中に1人の子供がいました。
その子供は旗本の息子で、福助のことを気に入り遊び相手にしたいと両親にせがみます。
子供の親である旗本は香具師に30両支払い福助を譲り受け召し抱えます。
福助が来てからというもの、旗本の家は幸運が続いていき、福助は大いに愛されます。
そしてついには旗本のところにいた女中「りさ」と結婚までします。結婚したのち永井町というところで深草焼という陶器の商売を始めます。
そして、そこで自分に似せた人形をつくり売りに出します。その後、福助は長寿をまっとうします。
福助の死後、長寿だった佐太郎の幸運にあやかろうとしてか、「福助人形」は招福の縁起物として流行しました。
というのが『福助人形』の始まりの最も有力とされている由来です。
京都の呉服屋の主人説
江戸時代は八代将軍吉宗の頃、京都は伏見の百姓、下村三郎兵衛に子供が出来ます。
その子供は名前を「彦太郎」といいました。
彦太郎は頭が大きくて背が低く、耳たぶは垂れ下がっていました。
彦太郎は9歳になると奉公に出ます。
上長者町の大文字屋という呉服屋です。
働き者だった彦太郎はやがて主人に認められ、伏見京町に支店を出し独立するようになります。
大文字屋の支店を出すと名前も彦三郎から「彦右衛門」と改名します。
さらに「お常」というお嫁さんができると、お常の実家である名古屋で木綿の足袋や腹掛け(はらがけ)、そして「大」と染めた手ぬぐいを売り出します。
するとこれが大当たりをして、お店は繁盛し瞬く間に大店の主人へと出世します。
これを見ていた伏見の人形師たちが、貧しい人へのほどこしも忘れない彦右衛門の心根にあやかろうと人形を作り「福助」と名付けて売り出したところ大流行したという説です。
ちなみに、この「下村彦右衛門」というのは、あの百貨店「大丸」の創業者です。先ほど出てきた「大」と染めた手ぬぐいは「大丸」のマークになっているものだったのかもしれません。
もぐさ屋「亀屋」の番頭説
最後はもぐさ屋の番頭という説です。
もぐさというのはお灸に使われる草で、ヨモギから作られるものです。
滋賀県は伊吹山のふもとにある「柏原」という宿場に『亀屋』という代々伝わるもぐさ屋がありました。
亀屋には『福助』という名前の番頭がいました。
福助は正直一途で、お店に創業以来から伝わる「家訓」を守り続け、普段から男性の和服での正装の一つである『裃(かみしも)』を着け、扇子を手放さず、道を行くお客さんを手招きしてはもぐさをすすめ、お客さんに対して感謝の心を常にあらわしていました。
おべっかを言わずに、真心でお客さんに対応していたので亀屋はとても繁盛していきます。
亀屋の主人もそんな福助をとても大事にします。すると、この話は京都にも広まっていきます。
それを耳にした伏見の人形屋は「福を招く縁起物」として福助の姿を模した人形を作り売り出します。
ちなみに、浮世絵木版画「木曽海道六十九次」に亀屋の福助が描かれています。
しかもこのもぐさ屋の「亀屋」は合同会社亀屋佐京商店として現存しています。
これが福助人形の由来とする三つ目の説です。
3つの説はどれも年代が違います。
・[彦右衛門」の説では彦右衛門の生まれたのが1688年
・「亀屋の福助」の説では、「木曽海道六十九次」の制作された年代が1835年から1842年
となっています。一番古い説は「彦右衛門」の説ですが、どうなのでしょうか?
福助人形の特徴の1つである四角い座布団からみると八代将軍吉宗より前の時代には座布団は丸いものだったそうです。
また正座はこのころにはなく、あぐらをかくか片ひざをたてた座り方が普通であったそうです。
また大田南畝の随筆には「享和三年(1803年)冬より、叶福助の人形流行」と記されてあり、加藤元悦の『我衣』には「文化元年(1804年)春の頃より叶福助といふ人形を張抜にせし物大に流行して」と記されているそうです。
そこから考えると「佐太郎」説が一番有力なのかもしれません。
いずれにしても、福助のモデルになった人物はたくさんの人に愛され親しまれた善人な感じがします。
福助人形と七福神との関係
七福神
といえば、日本・中国・インドから集まった七人の福の神です。
通常では
大黒天、毘沙門天、恵比寿天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊の七人とされています。
がしかしもともとは恵比寿天、大黒天の2人だったのです。
平安時代以降、毘沙門天が加わり三神として信仰されることが起こります。
室町時代の末頃になって七福神となったそうですが当初は必ずしも七人が一定ではなかったそうです。
そして、七福神の中の寿老人と福禄寿は名前が違いますが同じ神様と言われているのです。
なので、七人目に福助が入れられることがあるのです。
福助以外にも、吉祥天(きっしょうてん)、お多福(おたふく)、稲荷神(いなりのかみ)、猩猩(しょうじょう)が入れられることもあります。
これに関しては一つの説があります。
文化元年(1804年)、江戸吉原の「桔梗屋」の主人が福助人形をこしらえ売り出します。
桔梗屋の主人は頭でっかちで、しかもお金持ちになれたので、自分を模した人形を売り出しました。
その目的は福助人形を七福神に加えて、末広がりの八福神にすることでしたがうまくいかずに失敗します。
しかし、福助人形は売れて桔梗屋は繁盛しました。
という説なのですが、上記の三つの説から考えるとこの説はどうなのかな?とは思います。
福助人形のグッズ
現在の福助人形はいろんな形で販売されています。
手のひらサイズの木製の置物であったり、福助ワンちゃんや福助ネコとして招き猫とくっつけたような形で売られているものもあります。
またお正月飾りとして福助人形と門松がセットになっているものまであります。
他にも、ポチ袋にデザインされていたり、はんこになっていたりと今でも縁起物として人々に喜ばれているのです。
まとめ
縁起物として人々に親しまれてきた福助人形。
その由来にはいろいろな物語があったんですね。
苗字まであったのにはびっくりでした。
願いが叶う縁起物なのでご家庭の玄関などに置いてみるのはどうでしょうか?
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